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日本とハワイ王国の意外な関係

アロハフライデーと言うことで、

今日はプリンセス カイウラニについてお話します❗

着物姿のカイウラニ王女

ヴィクトリア・カイウラニ王女(1875年10月16日~1899年5月6日)は,ハワイ王国7代目の国王 デイビット・カラカウア大王の姪として誕生します❗(カイウラニ王女のお父さんはスコットランド人、お母さんはハワイアンです)

カラカウア王についてもお話する事があるので、次回取り上げます。

カラカウア大王

19世紀当時 ハワイ王国は滅亡の危機に瀕しておりました

その原因は、アメリカ合衆国でした。

18世紀、英国人の冒険家、キャプテンクック率いる冒険団がハワイ諸島にやってきて以来、アメリカ人や英国人などがハワイに訪れるようになりました🏝🏝🏝

クック船長

ハワイに乗り込んだアメリカ人の多くは、サトウキビ農園を営み 財をなしました💲💲💲

その当時、アメリカ合衆国は、南北戦争(1861年~1865年)の真っ最中で南部で作っていたサトウキビが、戦争の為あまり出来なくなりました⚔

そこで、ハワイにやってきたアメリカ人は、ハワイで砂糖を作ってアメリカに売ろうと考えたんですね❗

カラカウア王は、ハワイをより豊かにするため、アメリカに輸出するサトウキビの関税を撤廃します。こうすれば、よりお金がハワイに入ってくると考えたんですね。しかしこれが裏目に出ました。

アメリカの資本家たちはサトウキビで得た利益で、ハワイの土地を沢山買いました。

その当時、ハワイアンは土地は個人で所有するという概念をあまり理解していませんでした。(土地は個人が所有するという概念は、欧米がハワイに持ち込みました)

土地の売買という事を十分に理解しないまま、欧米人に安い値段で売ってしましたのです。

そして、欧米人がハワイに来てから、未知のウィルスも運んできてしまい、ハワイアンの人口はどんどんと減っていきました。(クックが来た18世紀当時は、約30万人いたハワイアンが、19世紀ころには4万人弱になりました)

その逆に、欧米人はどんどん増えて、政府の主要閣僚もアメリカ人が占めるようになってきました。こうしてハワイがアメリカ合衆国に併合される土台が出来上がりました。

この状況に危機感を覚えたカラカウア王は、ある事を考えるようになりました。

それがハワイ・アジア連合です。

1881年、カラカウア王は世界一周の旅にでます🚢

サンフランシスコを経由して、清・香港・インド、英国など3ヶ月をかけて旅をする予定でした🚢🚢🚢

そしてカラカウア王が、世界旅行の最初に選んだ国が、我らが日本でした🗾

日本はこの当時、明治時代になりすぐの時期でしたが、世界から初めて日本へ来られた国家元首が、このカラカウア王でした🗾

日本滞在時のカラカウア大王
中央下

日本はハワイ国歌、ハワイ ポノを演奏してカラカウア王を手厚くもてなしました❗

ある日の歓迎会の様子が、カラカウア王の日記に記されてます

「テーブルの上にALOHAの文字をかたどった花飾りが置かれていた。この歓迎振りに私は思わす何と美しいと口に出してしまった」

カラカウア王が日本を最初の訪問国に選んだのには、理由がありました🗾

それは、アジアの中でいち早く近代化を成し遂げた日本に、ハワイ・アジア連合の盟主になってもらおうと考えたからです❗❗

そこでカラカウア王は、姪のカイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との縁談話を明治天皇に持ち掛けます

縁談で日本とハワイで強固な関係を気づき、欧米列強をけん制しようと考えたんですね。

しかし明治政府は、日本は国力を増強している最中で、アメリカと衝突するのは得策ではないとして、この縁談話を断ってしまいます。


ここからは私の妄想ですが、 もし縁談が成立してお子様が生まれた場合、お子様には皇位継承権、王位継承権(ハワイ)が生まれていたかもしれませんでした。

もしかしたらハワイにパスポートなしで行けていたかもしれませんでした😭

今日はここまでです😋

皆様、良い週末を😊

レ・アヒ(ダイアモンド・ヘッド)から見えるワイキキ付近一帯

今回参考にさせていただいた資料です

ありがとうございます❗

カラカウア王のニッポン仰天旅行記 小学館 2000年